ちゃんこ萩乃井 大森宣勝さん

Pocket

「大曲浜の皇室献上用の海苔をもっと多くの人に知ってほしい。「海苔うどん」を通じて東松島を元気にしたい。」その思いを胸に、数々の困難を乗り越えてきた人。それが、地域の人に「親方」と慕われる大森さんです。親方と呼ばれるのは、元力士であることから、それが今のお店に繋がっています。

 筆者が、大森さんと出会ったのは、2011年5月5日でした。東日本大震災から約2か月後のこどもの日。震災後、子どもたちに遊び場を提供する市民センターで、ちゃんこ鍋をふるまっておられました。その隣で、たまたま、炊き出しをしていたことがきっかけでした。

たまたま隣に居合わせたことから、「遠くからありがとう。また来てくれるか?」そう声をかけていただいたことが、大森さんとの関りの始まりになりました。

 大森さんは、震災以前から、東松島市の大曲浜の海苔が、皇室に献上される質の高いものであると知ってから、2000年、この海苔を地域の特産品として東松島市の代名詞のようにしたいと考えました。当時、地元商工会の特産品開発委員長だったこともあり、飲食店として使える「のりうどん」を考案・提案されました。海苔とうどん。その斬新な考え方に賛同してくれた委員は少数でしたが、この地域の海苔を必ず地域の特産品にしたいとの思いで、自己資金で製麺機を導入し、商品開発、構想から約5年の歳月を経て商品化にたどりつきます。「のりうどん」と言えば東松島、だとイメージしていただけるようになることを理想に掲げ、ただ、それだけを考えて努力されてきました。なんとか商品化にたどり着いたものの、「のりうどん」の認知はなかなか上がらないまま、2011年3月11日が…。

地震・津波により店舗は被災。地域の皆さんに少しでも心、安らげる食事を提供しようと、約2か月で営業再開にこぎつけます。

あわただしい毎日を過ごす中、店舗の片づけ中に見つけた一つの一斗缶。その中には、「のりうどん」用の海苔の粉末が入っていました。「あ!これは!」と興奮しながら、中身を確かめたそうです。

震災は、海苔を生産する漁師さんにも壊滅的な影響を与えました。海苔漁師さんを取り巻く環境は一変し、漁場も整わないなか、のりうどんの製造も再開のめどは立ちません。

ただ、きっと、復活できると、そう信じて時を待ちました。

震災から1年8カ月後、僅かながら、海苔の生産が一部再建できるところから、新たな挑戦が始まります。「のりうどん」を通して、大曲浜の最高級の海苔を知ってほしい。そう願い、のりうどんを再開します。

新たにのりうどんの乾麺を開発し、地元の商工会に呼びかけるも、賛同者は2名。「自分でやるしかない」そう心に決めて、取り組みます。

「のりうどん」の実績は、全国に波及し、海苔のもつ魅力に対し、新しい商品化を考える大学とのご縁もいただきました。大森さんの「チャレンジ」が、新しい花を開かせることになるきっかけとなりました。

大森さんは、言います。「みんなでやろうと提案したけど、できなかったから私がやっただけ。私がやっているけど、のりうどんが東松島の代名詞になることで、地元が活気づく。ただそれが夢」だと。

また、最高品質の海苔の養殖ができる環境にありながら、災害前は30人ほどの海苔の漁師がいたにもかかわらず、震災後、10名程になってしまった。たかが、「うどん」かもしれないけれど、のりうどんの可能性をとおして、人と環境の質が与えてくれる最高品質の海苔を育てる海苔漁師が一人でも増えるといい、そう願っています。

76歳になる大森さんの「大曲浜の海苔を一人でも多くの人に知ってほしい。」その思いは、のりうどんからはじまり、20年の歳月を越え、新たなステージに進んでいます。

ちゃんこ萩乃井

のりうどん 大森宣勝 REVOLIST

のりうどん 皇室献上の海苔を養殖する大曲浜でとれた海苔を練りこんだ独自開発の麺です。

https://noriudon.socialimagine.com/

facebook #のりうどん Twitter #のりうどん Instagram #のりうどん

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です